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アセテートが初めて世に出たのは1904年、カミーユ・ドレフュスとその弟アンリが
スイス、バーゼルにある父親の庭の納屋で行った化学実験と薬剤の開発でした。化学薬品の製造に興味のあった父の影響を受け、息子たちも化学の世界に進んだのです。バーゼルは染料産業の中心地でしたから、ドレフュス兄弟最初の業績が合成インディゴ染料の開発だったのも自然の流れでした。無限の可能性を秘めたフィールドを求めた彼らが選んだのが、テキスタイル用繊維といったセルロースアセテート製品でした。
ドレフュス兄弟は、スイスとフランスで5年間にわたり、論理的かつ体系的な研究・実験を重ねました。
1910年までにふたりはアセテート染料およびプラスチックフィルムの試作に成功、生産能力1日3トンの工場をバーゼルに設立しました。製品はおもにフランスやドイツのセルロイド企業に、そしてパリの映画会社パテ・フレールには不燃式フィルムが販売されました。
「ドープ」と名づけられたアセテート染料は、始めのうちこそ小さな事業でしたが、飛行機の翼・胴体用コーティング剤として航空機企業に販売され、航空業界の発展とともに売上を伸ばしました。

二千回余りの実験の結果、連続したアセテートフィラメント(長繊維)の試作品は1913年までには完成していました。
しかし第1次世界大戦が勃発したため、フィラメントが商業的成功を収めるまでには1921年まで待たなければなりませんでした。敵国であるドイツ企業との取引はもちろん打ち切られ、連合国政府向けに軍用機用コーティング剤「ドープ」を急ピッチで生産、独占供給する必要にせまられたのです。
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1914年11月、英国政府は「ドープ」製造のため、カミーユ・ドレフュス博士を同国に招聘しました。
米国が参戦した1917年には、米国政府国防省もドレフュス博士を同様の工場設立のために招聘しました。約6週間後、国防省との間で「ドープ」販売契約交渉が行われ、工場建設地の検討に入りました。ドレフュス博士らは1918年、メリーランド州カンバーランドで建設を着工したものの、完成を待たずして終戦を迎えることとなりました。
米国政府との契約は終了しましたが、工場の建設は進み、業容は次第に整いはじめました。一方、英国工場ではアセテート繊維の商用開発に初めて成功、1921年、商用セルロースアセテート糸の生産にはいりました。
用途はおもに、クローシェ編、トリミング、エフェクト糸、そして大衆価格の裏地でした。
米国では1924年12月25日、カンバーランド工場の操業がはじまりました。生産された糸の品質には問題はありませんでしたが、販売妨害は熾烈を極めました。絹関連業者は業界をあげて、アセテートの信用を落とし、その普及を妨害するために手を尽くしたのです。しかし、アセテートの熱可塑性という特性により、モアール織に適した繊維として大成功を収めます。またパーマネントプリーツの商業的可能性も決定的なものにし、スタイル面で服飾産業に大きな刺激をもたらしました。
アセテートによる真に大きな貢献です。
絹とアセテートとの複合は当初から成功し、ほぼ同時期から綿との複合も行われました。綿は当時、絹やアセテートよりも安価な繊維だったため、綿/アセテート複合により低コストの生地製造が可能になりました。
現在アセテートは、絹、綿、羊毛、ナイロンなどと複合され、シワになりにくく、すぐれた風合い、ドレープ性、速乾性、寸法安定性をもち、異色染めも可能な、価格競争力の高い生地として使われています。
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